2006/01/31

大井川橋

暑い夏も終わり、良い季節の到来で再び歩き始める。大井川橋の手前の表示板には、川幅が1,030mとある。橋の上から眺めると、水量は上流の電源開発が進み、昔に比べると見る影もないという。しかしやはり長い、途中の中洲には、7-8mはあろうかと思われる木も散見される。この大井川の川霧のお陰で、周辺の丘陵地の茶畑で品質の良いお茶が獲れたという。現在は水量の低下でお茶の味も落ちたらしい。(写真撮影日:2005年10月8日)

2006/01/29

宇津ノ谷峠

宇津ノ谷峠に至る入り口付近には、2間程の道を挟んで昔ながらの家並みが続く。この峠道は、豊臣秀吉が小田原の北条攻めの際に新たに開いた道だそうだ。急な道を登ると視界が開け、写真で見るように通り過ぎた部落が眼下に見える。転げそうな急な山道を抜けると、岡部の宿へたんたんとした川沿いの道が続く。(写真撮影日:2005年6月18日)

とろろ汁の丁子屋(丸子の宿)

安部川を越え山遭いの道をしばらく行くと、丸子の宿にある昔ながらの藁葺き屋根の古い作りのとろろ汁・丁子屋に辿りつく。お櫃にたっぷり入った麦飯と自然薯を摺ったとろろ汁がここの名物で、麦飯にたっぷりととろろ汁をかけ、かきこむとこれまた素朴な味で何杯でもお代わりが出来てしまう。

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元祖安倍川餅

駿府(静岡)を出てしばらく西に下ると、安倍川に出るが、この橋の袂に200年続いている「元祖安倍川餅」の石部屋がある。早速中に入ると昔ながらの店構えで、土間に赤い毛氈を敷いた座席があり、金太郎さんに似た当主が注文に応じまだ出来立ての生暖かい安倍川餅を出してくれる。この餅を頬張ると、素朴で淡白な甘さが口いっぱいに広がる。安倍川餅には、写真でみるこの漉し餡と黄な粉餅の他に、酒の肴になるからみ餅もある。

駿府城(府中の宿)

駿府城は徳川家康のゆかりの地である。幼年時代今川義元の人質として過ごした場所、壮年時代の拡張期の頃の居城、征夷大将軍を退いた後死ぬまで大御所として過ごした場所でもある。駿府城は現在建物は隅櫓程度が残されているだけで、目だったものはなく、公園として整備されている。場内のあちこちには、家康の銅像や祈念碑等が散見される。

2006/01/28

清水の次郎長(江尻の宿)

JR清水駅の南約2kmに清水の次郎長を祀った梅陰寺がある。寺の一角には次郎長に関する資料館が併設されている。資料館のそばには、写真で見る銅像がある。またこの寺から4?500mほど離れたところには、次郎長の生家も保存されている。次郎長は、単なる侠客にとどまらず、後年には英語の学校まで作ったことが資料からわかる。かなり開明的な人であったようだ。

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さった峠の富士

由比から興津、清水へ抜ける道にはさった峠が立ちはだかる。ここは山が海岸線に迫る難所である。現在は東名高速、国道が平行して崖を避け、海岸線ぎりぎりのところを走る。さった峠から見る富士は、駿河湾の全貌とあいまってすばらしい眺めである。上りの東海道線でこの海岸線を走る時、車窓の右側に雄大な富士の眺めを楽しめる場所でもある。このさった峠を下ると、江尻(清水)の宿は近い。

田子の浦海岸

これは春の田子の浦海岸であるが、あまり人影もなく遠くに富士市の製紙工場の煙突からの白煙が見える。海岸線にはうららかな春霞がかかり、良い天気であった事と歩き疲れもあって海岸でしばしの昼寝を楽しんだ。またモーターグライダーや堤防の上ではサイクリング等を楽しむ人もいて、遠い昔とは異なった風景が展開されている。

田子の浦からの富士

沼津から吉原そして富士川にかけては、昔から広大な湿地帯で、たびたび地震による津波に襲われ、東海道沿線の宿場町は被害を受けている。沼津から富士川に至る海岸線には、高さ約7mで20kmに及ぶ防潮堤が延々と続き、津波の被害から人々守っている。防潮堤の陸側には、千本松原と呼ばれる松の林がこれも延々と続き、海岸線との美しい景観を保っている。昔の人は、歌にも読まれた田子の浦の海岸から裾を引く美しい富士を直接見ることが出来たのだろうが、今は堤防と松林に阻まれ写真のような、上部の部分しか見ることが出来ない。

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頼朝・義経対面石(三島の宿)

三島大社を過ぎて西へしばらく下ると、三島と沼津の境に黄瀬川が流れているがこの少し手前に頼朝と義経が対面したと言われる一対の石がある。ここが平家追討の兵を挙げた頼朝に奥州の平泉から駆けつけた義経が初めて対面した場所との言い伝えである。黄瀬川はこの少し南西で狩野川と合流し駿河湾へと注ぐ。

2006/01/26

箱根雲助徳利の墓

山中城址の近くに雲助徳利の墓がある。写真のプレートにはその謂れが刻まれているが、それによると元西国大名の剣術指南であった九四郎なる人物が酒がもとで事件を起こし、国外追放となりここ箱根へ流れ着いた。剣術の腕前に優れ、読み書きができるのでいつのまにか雲助仲間に親分として慕われる事になったが、酒が原因で命を縮め亡くなった。後年、雲助仲間が墓に徳利と杯を刻み霊を慰めたとある。山中城は、小田原城の西を守る砦であり、山城のため珍しい水のない障子掘りの跡などが残されている。この砦も秀吉の小田原攻めの際に攻略され、打ち壊されている。山中城址付近から三島までは、長い長いだらだら坂が続く。

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箱根峠

樹齢200年以上といわれる元箱根の杉並木を抜けて芦ノ湖沿いにしばらく行くと、箱根関所跡に至る。現在関所の復元作業が行われており、近く完成の運びである。また関所跡の近くには、資料館もあり往時を忍ぶ事が出来る。関所跡から箱根峠まで急な山坂が続き、一部杉並木も残されている。坂を抜けると視界が急に開け眼下に富士と芦ノ湖のすばらしい眺望が開ける。写真は、箱根峠から三島に下る分岐点であり、周囲には人間の背丈よりやや高い竹笹が生い茂り、三島方面の急なくだり坂は、竹がトンネル状となり道を覆い今は人通りもないため、雲助でも出できそうで薄気味がわるい。この坂を下ると、山中城に出るがここからは整備された石畳が三島方面へと続く。

2006/01/24

箱根・お玉が池

箱根旧街道の石畳を登りきったところにお玉が池がある。そしてその近くにお玉を祀った観音堂が立てられている。一人江戸に奉公に出たお玉は、寂しさに耐えかねず故郷に帰る事を思いつき、江戸からこの箱根まで来て手形を持たないので、関所を破ろうとして捕らえられ処刑された。いつしかこの近くあった池がお玉が池と呼ばれるようになった。写真の看板にはこの様な内容が記されている。(写真撮影日:2005年3月26日)

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箱根畑宿の一里塚

 箱根畑宿から山を越え芦ノ湖に通ずる旧街道には昔ながらの石畳が残っている。石畳は、山道が雨でぬかるみ歩けなくなるのを防止する目的で作られた由。石の代わりに竹とか木を道路にひく事も試みられた様であるが、結局石が耐久性もあって残ったようである。畑宿の旧街道の入り口には写真で見る様な一里塚がある。日本橋から歩いて来て、初めてみる残存する昔ながらの一里塚の姿である。(写真撮影日:2005年3月26日)

小田原城(小田原の宿)

日本橋から約20里、9つ目の宿が小田原である。戦国時代には早雲から数え5代北条家が続き全盛を誇ったが、豊臣秀吉により滅ぼされた。小田原は現在私が住居を構えるところだが、気候温暖で東京・箱根・伊豆にも近く住むには良いところである。秀吉に城を囲まれたときに、場内には10万人の人が立てこもったと言われているが、当時に比べ現在の人口も20万前後とそれほど増加していない。小田原は、箱根8里の出発点で、小田原から湯本までだらだら坂が続くが、湯本を過ぎ畑宿を過ぎるあたりから、石畳の急坂が芦ノ湖まで続く。

2006/01/22

権太坂(保土ヶ谷の宿)

JR保土ヶ谷の駅を過ぎ、保土ヶ谷バイパスの陸橋を超えると、箱根駅伝で全国的に有名となった権太坂がある。最も箱根駅伝の権太坂は国道1号線にあって、旧東海道はそれより少し山側へ入った所にある。日本橋から初めて旅人が出会う難所で、急な坂が2km近く続く。写真のプレートには、「権太坂」の謂れが記されている。それによれば、旅人が道端の老人に地名を尋ねたところ、その耳の遠い老人が自分の名前聞かれたものと思い「権太」と答えたとある。坂を上り切った所にはその難所で行き倒れになった人を葬ったと言う投げ込み塚もある。(写真撮影日:2004年11月6日)

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鈴が森の刑場跡(品川の宿)

JR品川駅を過ぎ、八つ山橋の手前を左折、しばらく行くと京浜急行の北品川駅から青物横丁にかけて旧東海道沿いに昔ながらの商店街が賑わいを保っている。商店街を抜け、処刑される罪人と家族が別れを惜しんだと言う涙川橋を渡り、第1京浜国道と合流するところに、鈴が森の刑場跡がひっそりと昔の面影を残している。刑場跡には、八百屋お七や丸橋忠弥が火炙り・磔で処刑された石の台があって、そのすぐ近くには処刑された人の霊を慰める寺もある。(写真撮影日:2004年11月2日)

日本橋

日本橋には、写真で示すように、ここから日本の主要都市への里程標がある。旧東海道は日本橋から京都三条大橋まで53宿・503kmとある。10月23日の丁度正午にここを出発、全行程を徒歩で歩くことにした。(写真撮影日:2004/10/23)

2006/01/19

東海道53次写真及びコメント

2004年の10月23日、丁度正午に日本橋を出発、東海道53次、東京の日本橋から京都三条大橋までの503kmを歩くことにした。この間、徒然なるままに撮った写真と感じたことをコメントしたい。