2008/05/27

東海道53次を歩き終えて

2004年10月に日本橋をスタートして、2008年5月に京都三条大橋に到着するまで結局3年と6ヶ月を要してしまった。最初に歩き終えるまでの目標を設定せず、気の向いたときに歩いたのでかなりの長期間となってしまったようである。

京都三条大橋では、昔お世話になった職場の上司がお孫さんと一緒に花束を持って迎えてくれたのには感激した。また途中、学生時代の同級生との再会を果たす事ができたり、街道筋にある遠くの親戚の家を訪ねたり、昔の会社の同僚と久しぶりに再会し、酒を酌み交わし一夜を過ごせたのも良い思いでとなった。

また街道を歩いていると、たくさんの同好の士ともめぐりあう。そのうちの一人とは、宿を共にし、酒を酌み遅くまで語りあった。街道筋の名所・旧跡を訪ねるのも楽しみであるが、こうした沢山の人とめぐりあい、話を交わすのも街道歩きの楽しみの一つかも知れない。

通常の旅は、鉄道・バス・飛行機等を利用するので、いわゆる点と点を結ぶ旅となる。歩いて旅をする事は、出発点から到着点まで線の旅となる。これは初体験であったが、旅を楽しむひとつの方法かも知れない。それに歩くことにより行く先々で地元の人と触れ合う事ができ、話をする事ができるのも楽しい体験であった。

また歩いて旅する事により、地形が良く頭に入る。昔の国境がなぜそこにあったのか、歩いて見ると良くわかる。天然の地形が要塞となり、そこが自然に国境となったように実感できる。

昔の人は足弱の老人・子供でも1日40kmを歩いたと書物にある。しかし1日でこの距離を歩くことは至難の技である。私の場合は1日25kmが限界であった。現代人は歩く機会が少ないので、昔の人に比べると脚力が相当衰えているのかも知れない。

東海道を歩き終えて、歩く楽しみを実感できたので、今後も機会を見つけ他の街道歩きに挑戦してみたい。 今、次にどの街道に歩こうかと案を練っているところである。

2008/05/25

京都三条大橋

大津宿を出て、長い上りの山道を抜けしばし下り坂を行くと山科の町に出る。町中を通り過ぎ日ノ岡の急な坂道を登りきると、眼下に京の町が見えてくる。長い旅の果てにここで京の町並みが見えたとき昔の人が感動しただろう事が歩いて旅をしてきた自分には良く想像できる。だらだらとした坂道を三条通り沿いに下って行くと、旅のゴールである三条大橋に到着。到着の時間は5時、まだ明るく橋を往来する、車や人通りも多い。足掛け三年半かかった東海道53次の旅は無事終了した。(写真撮影日:2008年5月23日)

2008/05/24

琵琶湖南岸(大津宿)

瀬田の唐橋を過ぎ瀬田川沿いに北上すると琵琶湖湖岸にでる。鈴鹿峠を越えはじめて見る琵琶湖の全貌(写真)を目にし、ゆったりとした時間の流れに身を置き、しばし疲れを癒す。大津宿への途中源義経に討たれた木曽義仲(享年31歳)を祀る「義仲寺」に寄る。(写真撮影日:2008年5月22日)

2008/05/23

瀬田の唐橋

今日は東海道53次の旅の最終日。早朝自宅を出て新幹線にて目的地の草津を目指す。9時半草津駅を出発する。駅を出てすぐ近くには東海道と中山道の追分がある。またそのすぐ近くには草津宿本陣が一般公開されている。現存する本陣としてはよく整備がされており、日本最大級だと言われている。舞坂宿にある脇本陣とよく似た印象を受ける。町中を抜けしばらく行くと琵琶湖南岸瀬田川に架かる有名な「瀬田の唐橋」に出る。ここは古来軍事・交通の要衝だった由。(写真撮影日:2008年5月22日)

2008/03/18

近江富士(石部宿)

野州川を渡り街道沿いを進むと途中、川底が道路よりも高くなっている天井川のトンネルをくぐる。どうしてこのような天井川が出来たのか、不思議であるがこの近くには大沙川、由良谷川等の天井川が現存する。地元の人に聞くと他にも何本かの天井川があったらしいが、現在は流れを変えられ、地下に導かれ川はなくなっているとの事。写真は石部宿のはずれ野洲川沿いの国道からみた近江富士(三上山)。途中「田楽」で有名な目川を抜け、いよいよ琵琶湖湖岸の草津宿へ入る。草津宿から京へは大津宿一つを残すのみ。目指すゴールはすぐ手の届くところとなった。
(写真撮影日:2008年3月16日)

横田の渡し(水口宿)

土山から水口までは平坦で長い道が続く。水口で一夜を過ごし、早朝水口の宿を出る。宿場のはずれで街道が野州川に突きあたる所には横田の渡しがある。昔の人はここで川を船で渡り、野州川沿いに街道を西へ下ったと言う。 (写真撮影日:2008年3月16日)

田村神社(土山宿)

鈴鹿峠からはたんたんとした下り坂が続く。坂を下りきった所が土山宿。この宿場の入り口付近には822年に創建された伝えられている坂上田村麻呂を祀った田村神社がある。ここで旅の安全を祈願、しばしの小休止後、土山宿へ入る。宿場は良く整備された道の両側に古い町並みが続く。
(写真撮影日:2008年3月15日)

2008/03/16

鈴鹿峠

関宿の西の追分を出ていよいよ鈴鹿峠越えとなる。たんたんとした急坂が続く。「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」の馬子唄で有名な「馬子唄会館」で休憩、館長からコーヒーの接待をうけ、いろいろな話を聞き、身体を癒し、いよいよ鈴鹿峠越えにかかる。途中ひっそりとした集落が続く坂下宿をすぎ、杉木立の山道を抜けるとそこが鈴鹿峠となる。箱根のような峻険で長い道を想像していたが、以外にあっけなく峠に着く。峠の開けた場所には写真のような大型の石灯籠(万人講常夜灯)が立つ。
(写真撮影日:2008年3月15日)

2007/12/16

関宿

関宿は江戸から数えて47番目の宿場町である。ここには唯一歴史的な町並みが東西追分の間1.8キロにわたり残されている。写真は東の追分地点から町並みを見たもの。関宿を越えるといよいよ鈴鹿峠越えとなる。
(写真撮影日:2007年12月15日)

鈴鹿川と鈴鹿連峰

亀山の宿を出てしばらく歩き野村の一里塚を経て、布気を過ぎるあたりから旧東海道は鈴鹿川に沿い関の宿へと続く。このあたりからは鈴鹿の山並みがよく見える。川の水量は少ないが水は澄み、鈴鹿の山に映えて美しい。
(写真撮影日:2007年12月15日)

伊勢亀山城(亀山宿)

亀山宿は東海道53次の江戸から数えて46番目の宿場町となる。 写真は亀山城多門櫓。城内の建物としてはこの多門櫓と石垣、外堀、二の丸から西出丸の北側の土居が残るのみである。また二の丸北埋門と帯曲輪が復元整備されている。城は16世紀中ごろに築かれ、関氏の城下として発展したと案内図にある。
(写真撮影日:2007年12月15日)

石薬師寺(石薬師宿)

 しばらく時間が空いてしまったが、久しぶりに東海道53次の旅に出た。四日市の宿を出て、3時間程歩き、石薬師の宿へ入る。 この宿は亀山の宿までの間が長すぎるという事で設けられたという。写真は石薬師寺。 寺名は本尊石薬師如来をまつることから来ていると言う。本尊の石仏は弘法大師自ら刻んだもので、本堂は戦国の戦火で消失後、1629年に再建されたとある。 (写真撮影日:2007年12月14日)

2006/10/24

四日市

四日市はこれまで仕事でしか行く機会がなく、騒がしい産業都市との印象が強かった。しかし今回初めて旧東海道を歩き静かな佇まいのある街道が保存されていて再発見の旅でもあった。写真は旧東海道沿いにあって広重の絵でも有名な三滝橋から遠く石油コンビナートを眺めたもの。川の水も澄んできれいだったのが印象的。
(写真撮影日:2006年10月21日)

2006/10/22

七里の渡し(桑名宿)

宮から海路7里を船で旅をすると「桑名の渡し」に着く。現在は写真に見るように護岸工事により水路が確保されているが実際に船が着く事はない。しかし昔ながらの7里を船の旅が楽しめる様に観光船を就航させる計画があって近く実現される運びと聞く。天守閣風の建物は水門を管理する事務所。(写真撮影日:2006年10月20日)

長良川河口

宮の渡しから桑名までの7里(28km)を昔の人は海路を船の旅で楽しんだ。現在は陸路を歩くしかない。宮から国道1号線をひたすら歩いた。この間、国道は木曽川・長良川・揖斐川と3つの川の河口近くを通る。写真は長良川と揖斐川の中洲にある公園から伊勢大橋を眺めたもの。すぐ近くに生態系への影響の是非をめぐり論議を呼んだ長良川河口堰がある。(写真撮影日:2006年10月20日)

ページのトップへ

2006/05/06

七里の渡し(宮宿)

古戦場で有名な桶狭間を出てしばらく行くと絞りで有名な有松の街並みに入る。ここは昔ながらの家屋や街道が比較的良く保存されており、伝統芸を伝える絞り会館もある。有松・鳴海・笠寺を過ぎまたしばらく行くと熱田神宮で名高い宮の宿に到着。宮の宿には桑名までの七里を海路渡し舟で行く「七里の渡し」址がある。周辺は埋め立てが進み、絵に描かれたような往時の渡し場の賑わいはないが、常夜灯や時の鐘の塔が復元され公園として整備されている。現在桑名までは木曽川・長良川・揖斐川の大河を越え陸路を行くことになる。(写真撮影日:2006年5月4日)

2006/05/05

桶狭間

5月晴れに誘われて久しぶりに東海道53次の旅に出る。知立を出て阿野の一里塚を過ぎ、名鉄の「前後」と言う珍しい駅から2km程行くと、桶狭間に出る。この場所は桶狭間史跡公園として整備され、今川義元が戦死したと言われる場所には霊を祭る碑(写真)が立っている。(写真撮影日:2006年5月3日)

2006/02/21

知立の松並木

八丁味噌で有名な岡崎の八帖町をで出て矢作川を渡り、しばらく行くと知立の松並木がある。これまで舞坂、御油、藤川、知立と4ヶ所の松並木を見てきたがいずれも手入れが良くいき届き、往時の面影を偲ぶことが出来る。なお八丁味噌の由来は、お城から8丁(約900m)離れた場所で作られていた事からきた由。(写真撮影日:2005年12月11日)

ページのトップへ

2006/02/15

岡崎城

岡崎城は徳川家康生誕の城である。それ故江戸時代を通じてこの城は神聖視されて来たと言うだけあって歴史と重厚な雰囲気を感じさせる。天守閣は昭和34年に復元されたもので、場内は公園として整備され、猛将本多平八郎忠勝の槍を抱えた銅像もある。(写真撮影日:2005年12月11日)

2006/02/11

山中八幡宮

三河の一向一揆で徳川家康が門徒に追われ身を隠し、一命を取りとめた鳩ヶ窟と言う洞窟のある神社である。周囲を田圃に取り囲まれた閑静な場所にある神社である。(写真撮影日:2005年12月10日)

2006/02/10

近藤勇の首塚

赤坂の宿を出て旧街道をしばらく行くと、国道1号と合流する。この近くに近藤勇の首を祀った法蔵寺がある。この寺は徳川家康ゆかりの寺として知られている。近藤勇の首塚がなぜこんなところにあるのかの疑問には、その前に立つ説明書きが答えてくれる。近藤は東京の板橋で処刑され、その首は京都で晒された。その首を新撰組の元隊士が持ち去り勇の敬慕していた和尚に埋葬を依頼したが、和尚は半年前に法蔵時に転任していたため急遽ここに運び人目をはばかって埋葬。昭和33年になって初めてこの事実が明らかになり、胸像を建て供養したとある。(写真撮影日:2005年12月10日)

ページのトップへ

2006/02/08

吉田城

豊橋公園の中に吉田城がある。立ち木に囲まれ、どこにあるのか探すのに多少時間を要した。写真の建物はいわゆる隅櫓で、復元模型で見ると四隅に隅櫓が建っており、天守閣といわれるものはなく、城内には御殿と言われる建物があるだけである。江戸時代は、長く池田輝政の居城の由。(写真撮影日:2005年11月26日)

2006/02/07

豊橋市内

豊橋市内には写真で見るような路面電車が走っている。(写真撮影日:2005年11月26日)

2006/02/06

浜名湖

快晴だが風が強く寒い、弁天橋から見る浜名湖は水も澄んでいてきれいである。周辺に障害物がないので風がまともあたる。弁天橋の下は、水の流れが速い。この辺は室町時代の地震で、陸が割れ淡水湖であった湖に海水が流れ込んだあたりらしい。この近くにはかつて渡し舟の乗り場であった「今切れの渡し」の船着場がある。浜名湖を過ぎJR新居町の駅を遠州灘方面へ左折すると、二川の宿までは延々と長い道が続く。(写真撮影日:2005年11月19日)

ページのトップへ

2006/02/05

舞坂の松並木

JR高塚の駅から歩き始める。天気晴朗なれど風強しで、快晴だが風が強い。しばらく行くと有名な舞坂の松並木に出会う。ここまで歩いて来て初めて会う整備された松並木である。約2kmに亘って写真で見るような松並木が続く。道の両側には東海道53次の宿場の道標が立てられ日本橋からの距離が標されている。(写真撮影日:2005年11月19日)

2006/02/02

掛川城

掛川は山内一豊・6万石の城下町、NHKの大河ドラマとして2006年初から放送開始という事で、城内のあちこちに地元の宣伝用の旗が立てられていた。小田原城の天守閣を見慣れた者にとっては、何かかわいらしい天守閣との印象を受けた。(写真撮影日:2005年10月22日)

2006/02/01

小夜の中山

大井川鉄道の始発駅のJR金谷駅の改札を出るとすぐ裏山が中山峠に続く道になる。小箱根と言われる急な石畳の坂道を登るとそこは茶畑が一面に広がる。茶畑のなかを細い道が延々と続く。100m毎に小休止を取るような急坂で、息が切れる。小雨降る天候で下界が霧にかすみよく見えないが、案内書などには茶畑の中に富士の雄姿が望める由。坂を上りきったところに、写真の夜泣き石のある久遠寺がある。伝説では、峠を越えようとした一人の妊婦が、山賊に切り殺されたがお腹の子供は無事助けれた、母の霊が乗り移った石とともに毎晩泣き続けたと言う。これを寺の住職が読経で霊を慰めたらしい。この小夜の中山から次の日坂の宿まで急な下りの坂が続く。(写真撮影日:2005年10月16日)

ページのトップへ

2006/01/31

大井川橋

暑い夏も終わり、良い季節の到来で再び歩き始める。大井川橋の手前の表示板には、川幅が1,030mとある。橋の上から眺めると、水量は上流の電源開発が進み、昔に比べると見る影もないという。しかしやはり長い、途中の中洲には、7-8mはあろうかと思われる木も散見される。この大井川の川霧のお陰で、周辺の丘陵地の茶畑で品質の良いお茶が獲れたという。現在は水量の低下でお茶の味も落ちたらしい。(写真撮影日:2005年10月8日)

2006/01/29

宇津ノ谷峠

宇津ノ谷峠に至る入り口付近には、2間程の道を挟んで昔ながらの家並みが続く。この峠道は、豊臣秀吉が小田原の北条攻めの際に新たに開いた道だそうだ。急な道を登ると視界が開け、写真で見るように通り過ぎた部落が眼下に見える。転げそうな急な山道を抜けると、岡部の宿へたんたんとした川沿いの道が続く。(写真撮影日:2005年6月18日)

とろろ汁の丁子屋(丸子の宿)

安部川を越え山遭いの道をしばらく行くと、丸子の宿にある昔ながらの藁葺き屋根の古い作りのとろろ汁・丁子屋に辿りつく。お櫃にたっぷり入った麦飯と自然薯を摺ったとろろ汁がここの名物で、麦飯にたっぷりととろろ汁をかけ、かきこむとこれまた素朴な味で何杯でもお代わりが出来てしまう。

ページのトップへ

元祖安倍川餅

駿府(静岡)を出てしばらく西に下ると、安倍川に出るが、この橋の袂に200年続いている「元祖安倍川餅」の石部屋がある。早速中に入ると昔ながらの店構えで、土間に赤い毛氈を敷いた座席があり、金太郎さんに似た当主が注文に応じまだ出来立ての生暖かい安倍川餅を出してくれる。この餅を頬張ると、素朴で淡白な甘さが口いっぱいに広がる。安倍川餅には、写真でみるこの漉し餡と黄な粉餅の他に、酒の肴になるからみ餅もある。

駿府城(府中の宿)

駿府城は徳川家康のゆかりの地である。幼年時代今川義元の人質として過ごした場所、壮年時代の拡張期の頃の居城、征夷大将軍を退いた後死ぬまで大御所として過ごした場所でもある。駿府城は現在建物は隅櫓程度が残されているだけで、目だったものはなく、公園として整備されている。場内のあちこちには、家康の銅像や祈念碑等が散見される。

2006/01/28

清水の次郎長(江尻の宿)

JR清水駅の南約2kmに清水の次郎長を祀った梅陰寺がある。寺の一角には次郎長に関する資料館が併設されている。資料館のそばには、写真で見る銅像がある。またこの寺から4?500mほど離れたところには、次郎長の生家も保存されている。次郎長は、単なる侠客にとどまらず、後年には英語の学校まで作ったことが資料からわかる。かなり開明的な人であったようだ。

ページのトップへ

さった峠の富士

由比から興津、清水へ抜ける道にはさった峠が立ちはだかる。ここは山が海岸線に迫る難所である。現在は東名高速、国道が平行して崖を避け、海岸線ぎりぎりのところを走る。さった峠から見る富士は、駿河湾の全貌とあいまってすばらしい眺めである。上りの東海道線でこの海岸線を走る時、車窓の右側に雄大な富士の眺めを楽しめる場所でもある。このさった峠を下ると、江尻(清水)の宿は近い。

田子の浦海岸

これは春の田子の浦海岸であるが、あまり人影もなく遠くに富士市の製紙工場の煙突からの白煙が見える。海岸線にはうららかな春霞がかかり、良い天気であった事と歩き疲れもあって海岸でしばしの昼寝を楽しんだ。またモーターグライダーや堤防の上ではサイクリング等を楽しむ人もいて、遠い昔とは異なった風景が展開されている。

田子の浦からの富士

沼津から吉原そして富士川にかけては、昔から広大な湿地帯で、たびたび地震による津波に襲われ、東海道沿線の宿場町は被害を受けている。沼津から富士川に至る海岸線には、高さ約7mで20kmに及ぶ防潮堤が延々と続き、津波の被害から人々守っている。防潮堤の陸側には、千本松原と呼ばれる松の林がこれも延々と続き、海岸線との美しい景観を保っている。昔の人は、歌にも読まれた田子の浦の海岸から裾を引く美しい富士を直接見ることが出来たのだろうが、今は堤防と松林に阻まれ写真のような、上部の部分しか見ることが出来ない。

ページのトップへ

頼朝・義経対面石(三島の宿)

三島大社を過ぎて西へしばらく下ると、三島と沼津の境に黄瀬川が流れているがこの少し手前に頼朝と義経が対面したと言われる一対の石がある。ここが平家追討の兵を挙げた頼朝に奥州の平泉から駆けつけた義経が初めて対面した場所との言い伝えである。黄瀬川はこの少し南西で狩野川と合流し駿河湾へと注ぐ。

2006/01/26

箱根雲助徳利の墓

山中城址の近くに雲助徳利の墓がある。写真のプレートにはその謂れが刻まれているが、それによると元西国大名の剣術指南であった九四郎なる人物が酒がもとで事件を起こし、国外追放となりここ箱根へ流れ着いた。剣術の腕前に優れ、読み書きができるのでいつのまにか雲助仲間に親分として慕われる事になったが、酒が原因で命を縮め亡くなった。後年、雲助仲間が墓に徳利と杯を刻み霊を慰めたとある。山中城は、小田原城の西を守る砦であり、山城のため珍しい水のない障子掘りの跡などが残されている。この砦も秀吉の小田原攻めの際に攻略され、打ち壊されている。山中城址付近から三島までは、長い長いだらだら坂が続く。

ページのトップへ

箱根峠

樹齢200年以上といわれる元箱根の杉並木を抜けて芦ノ湖沿いにしばらく行くと、箱根関所跡に至る。現在関所の復元作業が行われており、近く完成の運びである。また関所跡の近くには、資料館もあり往時を忍ぶ事が出来る。関所跡から箱根峠まで急な山坂が続き、一部杉並木も残されている。坂を抜けると視界が急に開け眼下に富士と芦ノ湖のすばらしい眺望が開ける。写真は、箱根峠から三島に下る分岐点であり、周囲には人間の背丈よりやや高い竹笹が生い茂り、三島方面の急なくだり坂は、竹がトンネル状となり道を覆い今は人通りもないため、雲助でも出できそうで薄気味がわるい。この坂を下ると、山中城に出るがここからは整備された石畳が三島方面へと続く。

2006/01/24

箱根・お玉が池

箱根旧街道の石畳を登りきったところにお玉が池がある。そしてその近くにお玉を祀った観音堂が立てられている。一人江戸に奉公に出たお玉は、寂しさに耐えかねず故郷に帰る事を思いつき、江戸からこの箱根まで来て手形を持たないので、関所を破ろうとして捕らえられ処刑された。いつしかこの近くあった池がお玉が池と呼ばれるようになった。写真の看板にはこの様な内容が記されている。(写真撮影日:2005年3月26日)

ページのトップへ

箱根畑宿の一里塚

 箱根畑宿から山を越え芦ノ湖に通ずる旧街道には昔ながらの石畳が残っている。石畳は、山道が雨でぬかるみ歩けなくなるのを防止する目的で作られた由。石の代わりに竹とか木を道路にひく事も試みられた様であるが、結局石が耐久性もあって残ったようである。畑宿の旧街道の入り口には写真で見る様な一里塚がある。日本橋から歩いて来て、初めてみる残存する昔ながらの一里塚の姿である。(写真撮影日:2005年3月26日)

小田原城(小田原の宿)

日本橋から約20里、9つ目の宿が小田原である。戦国時代には早雲から数え5代北条家が続き全盛を誇ったが、豊臣秀吉により滅ぼされた。小田原は現在私が住居を構えるところだが、気候温暖で東京・箱根・伊豆にも近く住むには良いところである。秀吉に城を囲まれたときに、場内には10万人の人が立てこもったと言われているが、当時に比べ現在の人口も20万前後とそれほど増加していない。小田原は、箱根8里の出発点で、小田原から湯本までだらだら坂が続くが、湯本を過ぎ畑宿を過ぎるあたりから、石畳の急坂が芦ノ湖まで続く。

2006/01/22

権太坂(保土ヶ谷の宿)

JR保土ヶ谷の駅を過ぎ、保土ヶ谷バイパスの陸橋を超えると、箱根駅伝で全国的に有名となった権太坂がある。最も箱根駅伝の権太坂は国道1号線にあって、旧東海道はそれより少し山側へ入った所にある。日本橋から初めて旅人が出会う難所で、急な坂が2km近く続く。写真のプレートには、「権太坂」の謂れが記されている。それによれば、旅人が道端の老人に地名を尋ねたところ、その耳の遠い老人が自分の名前聞かれたものと思い「権太」と答えたとある。坂を上り切った所にはその難所で行き倒れになった人を葬ったと言う投げ込み塚もある。(写真撮影日:2004年11月6日)

ページのトップへ

鈴が森の刑場跡(品川の宿)

JR品川駅を過ぎ、八つ山橋の手前を左折、しばらく行くと京浜急行の北品川駅から青物横丁にかけて旧東海道沿いに昔ながらの商店街が賑わいを保っている。商店街を抜け、処刑される罪人と家族が別れを惜しんだと言う涙川橋を渡り、第1京浜国道と合流するところに、鈴が森の刑場跡がひっそりと昔の面影を残している。刑場跡には、八百屋お七や丸橋忠弥が火炙り・磔で処刑された石の台があって、そのすぐ近くには処刑された人の霊を慰める寺もある。(写真撮影日:2004年11月2日)

日本橋

日本橋には、写真で示すように、ここから日本の主要都市への里程標がある。旧東海道は日本橋から京都三条大橋まで53宿・503kmとある。10月23日の丁度正午にここを出発、全行程を徒歩で歩くことにした。(写真撮影日:2004/10/23)

2006/01/19

東海道53次写真及びコメント

2004年の10月23日、丁度正午に日本橋を出発、東海道53次、東京の日本橋から京都三条大橋までの503kmを歩くことにした。この間、徒然なるままに撮った写真と感じたことをコメントしたい。